タイトルにリフレーミングといれようとしたんですけど、
必ずしもリフレーミングじゃないな、と思って、やめました。
けど、基本リフレーミング、ある状況について、別の言い方をするということ。
それを日本語学校でどう使うか、という話です。
学生はだいたい自己卑下とか、自分は日本語が下手、とか、わからない、
という態度で来ることが多いです。そこで、同調しない。
ダメな例「先生、てあります、ています、難しい。全然わからない」
「そうだよねえ。難しいよね」
「そうだよ。むずかしいよ」
「ほんとだねえ、むずかしいね」
なんというか、先の見通しが立ちませんね。
ちょっと、変な例を出してしまったかな。日本語の先生だと、「いや、ここ教えるの、結構難しい」って
そっちの方に引きずられるかも。(具体的な指導については別の機会に)
ここでいいたいことは、 先生まで、一緒になって「むずかしい」というのではなく、
一緒に考えていきたいということ。
★たとえば、一部はわかっても、極端にいうと、最後のひっかけみたいな問題がわからなくも「難しい」といいますよ。
イメージとして、80%わかってたのに、最後に先生の例文とか、難問20%がわからなくなったら、「ドーン」と落ち込んだりします。
だから、
「先生、むずかしいよ」
「え、どこがむずかしいの?」
「ここ」
「わあ、このもんだいは、できなくても大丈夫。
すごいね、このもんだいまで、やったんだ。
他の問題は?」
「こっちはできた」
「おお、いいですね。たいせつなことはぜんぶわかってるよ。すごい。」
などなど。
別の機会と書いたけど、ここで、すこしだけ。
「むずかしいよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、このふたつの絵があるでしょ?」(と言って、ふたつの絵をみせる。ほんとは何コマかの連続もの2つ)
で、どちらが『エアコンがついています』?」
「こっち」
「そう、こっちだよね。簡単だよね」と先生にっこり。
とか。
★技法としては、基本に返って、ゆっくりゆっくりやる
★わかる部分は、「わかるね、すごいね」というはげまし。
★ある部分からわからなくなるから、「難しい」といってくるので、
そこを特定して、「それはできなくても大丈夫」とか「じゃあ、ゆっくり一緒に考えよう」など。
すみません。「はげましの言葉」を中心にしたいのに、指導技法が混じりこんでしまった。
ただ、何かお役に立てれば、うれしいです。
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