日本語の先生や、ちょっと教えたい人に考えてもらえるようなことを書く回です。
正解があるわけではありません。ただ、そんな見方もあるんだ、ということで、視点の幅を
広げてもらうことを目指しています。
学習者が助詞がわからないっていう、だから、助詞をともかく一生懸命教える、っていうのって、
いいのか?わるいのか? 何か考えるべきことはあるのか?
です。
日本語を学ぶ理由は様々です。その中で、生活者は、コミュニケーションのための日本語が必要ですよね。
その最初が、単語を並べることだったり、ジェスチャーをつかったり。サバイバルですね。
そのうち、ちょっとずつコミュニケーションができるようになってきます。
わたし、ラーメン、たべた。 あした、カレー、たべる。 あした、大阪、行きます。友達会います。
とか。
で、この時点で助詞が抜けていることが多い。
でも、通じている。
これが、ボランティア教室とかきて、先生に文法を教わった後、小さな練習問題で
私はタクシー( )ともだち( )かまくら( )行きました。という問題を解かされる。
で、このくらいなら、できるのかもしれないけど、もし、間違えたりすると、「ああ、助詞、難しいね」と苦手意識ができる。人によっては、勉強は、助詞だ、とそれを一生懸命勉強したくなる。
これって、先生が作り出しているのかもしれない。
もし、先生が通じることを優先して、(助詞よりも語彙を増やして、楽しく会話の先生など)
授業をしていたら、「助詞がわからない」と嘆く代わりに「日本語たのしいね」と言っているかも。
今回いいたいことは、「助詞を教えるな」ということでは、もちろん、ありません。
でも、もしかしたら、生活者などに、特に初級前半を教えるときに、優先順位的に他のことをやった方が、はやくコミュニケーションがとれて、楽しく生活できる、ってことがあるかもしれないこと。
テストで、日常のコミュニケーションでは、使っていない助詞のテストをされて、落ち込ませているかもしれないこと。(先生側に原因があるのかも、って話)
など、考えてもらいたいです。
最近のコメント