「同情」と「共感」は違うという話があります。
共感の話は、他の回でも、出しました。
学校で勉強しない学生の話や
「あなたが犯罪を犯したとしても、それは、そうするだけの事情があったから」
とか、魔法の言葉「もし、私があなた(の立場、人生)だったら、同じことをする(感じる)と思います」
などの話です。
今回は、「同情」について、もう少し考えます。
人がつらい思いをしているとき、「ああ、つらいだろうな」と思ったり、
泣いているときに、「そうだよね、つらいよね」といって、一緒に泣いたり、って悪いことじゃないですよね。
つらい人がそれだけで、癒されたりってこともあると思います。横にいて、受け止めてくれるだけで安心してくることもあるし。
特に、「同情」がふたりの間で心を揺さぶるのは、「わたしも、同じ経験がある、わかる、わかる」っていうときです。「相手のつらさ=自分のつらさ」の時です。
ここからは、人にかかわる仕事をしている人の「あるある」かな、と思ってほしいのですが(だから、「同情」が悪いというより、「同情」したら、うまくいかないことがあったという私の例です)
「同情」すると、動けなくなることもあります。私がそうです。
対人支援の個人セッションで、相手の状況がわかりすぎる、と完全に一体化して、動けなくなるときがありました。
先生のお仕事をされている方で、教室で生徒さんとうまくいかない、という相談の時に、時として、
「ああ、そういうこと、私もあったなあ、確かにつらかった、ほんとうに大変だった」と完全に「同情」してしまうと、
もう、一緒につらいよねえ、つらいよねえ、 で、もう心はすごく寄り添ってる、一体感があるのですが、
もう、どう支援していったらいいか、どんな言葉がけをすればいいか、どう未来を一緒にかんがえていくか、ということが飛んでしまうことがありました。
一緒に寄り添って、一緒になく友人としてならOKだけどね。
だからこそ、 完全に同情しないこと。で、
コーチングの先生が言ってたのは、「共感して、相手の人生に入る、という場面も必要だけど、一方で、その人の人生と自分の人生が違うってわかっていることが、大切ってこと」
自分が経験していて、そのつらさがわかっていて、このひとこそ、助けたい、幸せになってほしい、という人に対してこそ、
単なる「同情」でかたまってしまう、を乗り越えて、「共感し、そして、一方で冷静に自分を持ったまま、いられる」人でありたい。
という「同情」の話でした。最後は「共感」の話になっちゃったけどね。
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