共感と同情4同情で固まってしまう

「同情」と「共感」は違うという話があります。

共感の話は、他の回でも、出しました。

学校で勉強しない学生の話や

「あなたが犯罪を犯したとしても、それは、そうするだけの事情があったから」

とか、魔法の言葉「もし、私があなた(の立場、人生)だったら、同じことをする(感じる)と思います」

などの話です。

今回は、「同情」について、もう少し考えます。

 

人がつらい思いをしているとき、「ああ、つらいだろうな」と思ったり、

泣いているときに、「そうだよね、つらいよね」といって、一緒に泣いたり、って悪いことじゃないですよね。

つらい人がそれだけで、癒されたりってこともあると思います。横にいて、受け止めてくれるだけで安心してくることもあるし。

 

特に、「同情」がふたりの間で心を揺さぶるのは、「わたしも、同じ経験がある、わかる、わかる」っていうときです。「相手のつらさ=自分のつらさ」の時です。

 

ここからは、人にかかわる仕事をしている人の「あるある」かな、と思ってほしいのですが(だから、「同情」が悪いというより、「同情」したら、うまくいかないことがあったという私の例です)

 

「同情」すると、動けなくなることもあります。私がそうです。

 

対人支援の個人セッションで、相手の状況がわかりすぎる、と完全に一体化して、動けなくなるときがありました。

 

先生のお仕事をされている方で、教室で生徒さんとうまくいかない、という相談の時に、時として、

 

「ああ、そういうこと、私もあったなあ、確かにつらかった、ほんとうに大変だった」と完全に「同情」してしまうと、

 

もう、一緒につらいよねえ、つらいよねえ、 で、もう心はすごく寄り添ってる、一体感があるのですが、

もう、どう支援していったらいいか、どんな言葉がけをすればいいか、どう未来を一緒にかんがえていくか、ということが飛んでしまうことがありました。

一緒に寄り添って、一緒になく友人としてならOKだけどね。

 

だからこそ、 完全に同情しないこと。で、

コーチングの先生が言ってたのは、「共感して、相手の人生に入る、という場面も必要だけど、一方で、その人の人生と自分の人生が違うってわかっていることが、大切ってこと」

自分が経験していて、そのつらさがわかっていて、このひとこそ、助けたい、幸せになってほしい、という人に対してこそ、

 

単なる「同情」でかたまってしまう、を乗り越えて、「共感し、そして、一方で冷静に自分を持ったまま、いられる」人でありたい。

 

という「同情」の話でした。最後は「共感」の話になっちゃったけどね。